ヨルシカ『夜行』。
ヨルシカ2作目のデジタル配信限定シングルとしてリリースされた、美しい日本語の響きに酔いしれてしまうような楽曲だ。
美しい情景描写の元で描かれる新たな物語。純文学を思わせるような情緒溢れるリリック。必見である。
ヨルシカの楽曲は毎回さまざまな考察がなされており、本楽曲もその例にたがわず多くの解釈の余地が残されている。
”大人になる” とは一体どういう意味なのか。”君” はどこに往ってしまったのか。
この記事では楽曲が残した多くの余白について、筆者の個人的な考察を述べていきたい。最後までお読みいただければ幸いだ。
n-bunaさんのコメント
『夜行』の作詞・作曲を務めたn-bunaさんは楽曲の配信に寄せて、Twitterにて次のように述べている。
夜行は大人になること、忘れてしまうこと、死へ向かうことを夜に例えて書いた詩です。
サビの晴る(春)に掛かるのが春の花の一輪草、花言葉は追憶で、この歌は春に咲く花を思い返す夏の歌でもあります。
人生の夜を行こうとする誰かに贈ります。n-buna
@nbuna-staffより
大人になること、忘れてしまうこと、死へ向かうこと。
ここではn-bunaさんのこのコメントを元にして、歌詞の意味を読み取っていく。
”大人”になること
この楽曲には大まかに分けて、2つの視点が共存しているように感じる。”大人”になる前の僕と”大人”になった後の僕である。
ねぇ、このまま夜が来たら、僕らどうなるんだろうね 列車にでも乗って行くかい。僕は何処でもいいかな 君はまだわからないだろうけど、空も言葉で出来てるんだ そっか、隣町なら着いて行くよ
(中略)
ねぇ、いつか大人になったら、僕らどう成るんだろうね 何かしたいことはあるのかい。僕はそれが見たいかな 君は忘れてしまうだろうけど思い出だけが本当なんだ そっか、道の先なら着いて行くよ
ヨルシカ 夜行
1番と2番のAメロBメロ。この部分は概して、”大人”になる前の僕の視点だ。
このまま夜が来たら、僕らどうなるんだろうね。いつか大人になったら、僕らどう成るんだろうね。ここでは明らかに、”僕” も ”君” も未来に憧れを抱いている。
僕も君も、ずっと先へ向かって行く。疑うこともなく、好奇心を持って。何かしたいことはあるのかい。僕はそれが見たいかな。いつか訪れる未来に期待するように、ただ真っ直ぐに前を見つめている。
しかしながら”僕”には2番の終盤で、もう一つ別の想いが芽生え始めている。
『君は忘れてしまうだろうけど思い出だけが本当なんだ』。
この部分だけは、感情のベクトルが明らかに他の部分と逆を向いている。自分たちはいつか大人になっていって、新しい何かを見つけるだろうけど、 ”思い出だけが本当なんだ”。前ではなく、ここではじめて ”僕” は後ろを向いた。しかし ”君”は道の先へ向かおうとしていて、”僕”は自らの道を逸れて ”君” に着いて行く。
過去に想いを馳せること。思い出の輝きに気付くこと。
これこそが、『夜行』で表現されている ”大人” になることなのではないか、と私は感じている。
それが顕著に表れているのがサビの歌詞だ。
さらさら、さらさら、さらさら、さらさら
花風揺られや、一輪草
言葉は何にもいらないから
君立つ夏原、髪は靡くまま、泣くや雨催い夕、夕、夕
夏が終わって往くんだね
そうなんだねそっか、大人になったんだね
ヨルシカ 夜行
n-bunaさんのコメントにもあった通り、ここは夏に春に咲く花を思い返す場面。”大人”になった僕の視点だ。そして1番、2番共に、春は美しく輝かしいもの、夏は涙を流すものとして描かれている。
『言葉は何にもいらないから』。
一番のAメロの歌詞で『君はまだわからないだろうけど、空も言葉で出来てるんだ 』とあることから、”言葉” は成長するにつれ会得するもの、いうなれば大人的なものとして表現されていることがわかる。
つまるところ、サビでの主人公は子供だった輝かしい春の日を追憶し、夏に涙を流しているのである。言葉は何もいらない。大人らしいものなんて必要ない、と。
誰だって、幼い頃は未来に希望を抱いている。
だけど大人になって、子どもの頃がひどく懐かしく思えてくる。もう二度と戻れないとわかったその途端に、過ぎ去った日常にどうしようもない憧れを抱くのだ。しかしどれだけ振り返ろうと、夜になってしまえば昼間には戻れない。夏になってしまえば輝かしい春の日には帰れない。
戻らない青春に涙して、はたと気づく。『そっか、大人になったんだね』。
戻らない過去を知ること。思い出の輝きに気付くこと。これこそが『夜行』での ”大人” になることなのではなかろうか。
”行く” と "往く”
この曲には「いく」という言葉に対し、二通りの漢字が当てられている。
”行く” と "往く”。
初めはたまたまなのかもしれないと思ったが、”晴る” と ”春” を掛け合わせるような日本文学的な楽曲だ。必ず意味があるはずである。
ここで注目したいのが、二つの漢字が使われているときの視点である。
ねぇ、このまま夜が来たら、僕らどうなるんだろうね
列車にでも乗って行くかい。僕は何処でもいいかな君はまだわからないだろうけど、空も言葉で出来てるんだ
そっか、隣町なら着いて行くよはらはら、はらはら、はらり 晴るる原 君が詠む歌や 一輪草 他には何にもいらないから 波立つ夏原、涙尽きぬまま泣くや日暮は夕、夕、夕 夏が終わって往くんだね そうなんだね
ヨルシカ 夜行
一貫して、Aメロ・Bメロでは「行く」が、サビでは「往く」が用いられている。”大人”になる前の僕は好んで ”行く” を使い、”大人” になった僕は好んで ”往く”を使っているというわけだ。
調べてみたところ、「行く」は単に目的地に向かうことを、「往く」は元の場所に変えることを前提に目的地に向かうことを意味しているらしい。
そうなってくると、なるほど、”大人”になった僕の心情がわかってくる。
”大人” になった僕は、「行く」という表現を使うのことが億劫なのだ。戻れないどこかへ進むことは怖いから。子供の頃は未来に期待していて、一方通行でも進むことを厭わなかった。だが今は、過去の煌めきを知ってしまっている。いつか戻れることを心のどこかで期待して「往く」と表現しているのである。たとえ過去には戻れないとわかっていても。
「往く」という表現は、”大人” になった僕の気持ちの表れなのだ。
”君”の行く末
この楽曲で描かれる物語ではっきりしないのが、 ”君” の行く末だ。”僕” と親し気な関係で、ともに大人に近づいていった人物。MVから察するに女性である。
MVでは最後に彼女が消えてしまうような描写があるものの、歌詞で彼女がどうなったのかは明言されていない。一体彼女はどこに消えてしまったのか。
この謎を解く鍵は、先ほどの「往く」という表現にある。
はらはら、はらはら、はらり
晴るる原 君が詠む歌や 一輪草
他には何にもいらないから波立つ夏原、涙尽きぬまま泣くや日暮は夕、夕、夕
夏が終わって往くんだね
僕はここに残るんだねずっと向こうへ往くんだね
そうなんだね
ヨルシカ 夜行
『ずっと向こうへ往くんだね』。
ラスサビにて、”君” はどこかへ往ってしまう。
ここで「往く」の意味を考える。少し前の歌詞では、本来「行く」であるべきところを「往く」とあえて表現していた。
では今回の「往く」の部分が本来別の漢字で、”僕” があえて「往く」に言い換えていたとすればどうだろう。
何が言いたいか。
”君” はもう ”逝ってしまった” のではないだろうか。
元の漢字は「行く」ではなく、「逝く」だったのではなかろうか。
そう考える根拠は他にもある。上記の通り、楽曲の最後はこう締めくくられている。
『僕はここに残るんだね ずっと向こうへ往くんだね そうなんだね』
僕はここに残り、”君” はずっと向こうに往ってしまう。
しかしAメロの歌詞を振り返ってみると、君が生きているのなら僕は取り残されるはずがないのである。
君は忘れてしまうだろうけど思い出だけが本当なんだ そっか、道の先なら着いて行くよ
ヨルシカ 夜行
二人の間には、どうやら考えの違いはある。僕は過去を振り返り、君は未来を向いている。だがたとえ考えが違っても、僕は君に着いて行こうとしているのである。
もしも君が生きていたら。きっと僕は君に着いて行くだろう。
また、n-bunaさんは「夜行は大人になること、忘れてしまうこと、死へ向かうことを夜に例えて書いた詩です」と述べている。僕が取り残されたということは、やはり君は死んでしまったのではないだろうか。
もちろんこれは一つの憶測にすぎない。決定的な根拠なんてないし、「逝く」ではなく単に「行く」であった可能性も否定できない。
ともかく、”君” は ”僕” が到底着いて行けないような、『ずっと向こう』に往ってしまったのだ。
まとめ
大人になることは過去に想いを馳せること。もう戻らない過去が美しく輝くこと。
夏の夕に春に咲く一輪草を想う。
人生の夜を行こうとする誰かに贈る、切なくも美しい名曲である。
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