アルバム「EYE」収録、SEKAI NO OWARI「LOVE SONG」。
デビュー当初の楽曲のようなダークな世界観が、進化したメロディとともについに帰ってきました。「世界の終わり」完全復活。早速解説していきます!
楽曲について
2019年2月発売、アルバム「EYE」リード曲。
「LOVE SONG」というタイトルから一見すると甘い恋愛ソングのようですが、実際のところは皮肉だらけのダークな一曲です。セカオワに甘いラブソングを求めてはいけません…笑
長い間、セカオワは「炎と森のカーニバル」に代表されるファンタジックな楽曲や「RAIN」に代表される温かみのある曲を追い求めてきたように思われますが、ついに原点回帰、7年ほど前のセカオワの毒のある歌詞が戻ってきました。しかも、あの頃よりずっと大人になって。
「昔のセカオワは好きだけど今のセカオワは…」なんて人も唸るような楽曲となっております。
MVも現在公開中。
大人になるまでの過程をドミノで表した、というMV。Fukaseさんのベース、DJ LOVEのドラムが新鮮で印象的です。もうDJじゃなくね…
まだご覧になっていない方は是非!
歌詞解釈
この曲は「I'm from your future」とサビで歌うように、終始「大人になった自分」が「子供の頃の自分」に語りかける形で進行しているように思います。もっといえば、世間に噛み付く「子供」に対する、「大人」からの反論です。もっとも、反論だけでは終わらないんですが。
いつの時代もいるんだ
「大人はいつも矛盾ばっかり」とか「嘘ばっかり」って言うKid
今の君はどうなんだい そんなに子供は純粋だったかい?
時間が成長させるとでも? Hey Kid
SEKAI NO OWARI 「LOVE SONG」作詞 Fukase
1番の冒頭。「大人はいつも矛盾ばっかり」「嘘ばっかり」というのは、子供が大人を批判するときの常套句。それを真っ向から否定します。今の君もそんなに純粋じゃないだろって。更に、この先成長すれば純粋になる、なんてことはないと。
Hey kid と毎回付け加えることで、歌詞の主観がいわゆる「大人」にあることが強調されています。
君の言う腐った大人もかつては今の君みたい
嘘つきはガキの頃から嘘つき なぁKid
大きなモノに噛み付いて 安全圏に逃げ込んで
撫でられながら威嚇する Hey Cat
SEKAI NO OWARI 「LOVE SONG」作詞 Fukase
ほぼ歌詞そのままなんですが、大人だって昔はそうだったんだ、という事実を主張。これはサビの歌詞にもつながってきます。
さらに、「嘘つきはガキの頃から嘘つき」。この理屈で行けば、「嘘ばっかりの腐った大人」もかつては「今の君」だったわけですから、子供たちが主張する「大人は嘘ばっかり」が正しいのであれば、それをいう子供たちも「嘘ばっかり」であるということです。ちょっとややこしい。
「大きなものに噛み付いて…」という歌詞は、いろんな取り方があるかと思いますが、どことなくネット社会を揶揄しているような印象を受けます。匿名で散々威張り散らして、何かあればアカウントごと削除して何事もなかったかのように日常に戻る。
ここでは年齢的に子供、というよりも、「大人を批判するもの」として「子供」という表現が使われているようにも思います。
僕達もかつては、いつか素晴らしい人に
憧れていた 君と同じさ
SEKAI NO OWARI 「LOVE SONG」作詞 Fukase
ここでいう「素晴らしい人」というのは、子供目線から見たときの「素晴らしい人」であって、社会一般から見た「素晴らしい人」ではない、という点に注意するべきでしょう。
大人だってかつては「素晴らしい人」に憧れていた。それはまあ例えば、いくら無理と言われようが諦めないヒーローみたいな人だったり、慣習を無視して自分の正義を貫くルフィみたいな人だったりするかもしれない。子供の頃は誰もが理想論しか語りませんから、それが「素晴らしい人」とみなされるわけです。でも当然、「大人」にとってそれは違う。
いつだって時間はそう
僕達を楽にさせて
少しずつ麻痺させて
最高な大人にしてくれるいつだって時間はそう
諦めを教えてくれる
君達をいずれ
素晴らしい人にしてくれる
SEKAI NO OWARI 「LOVE SONG」作詞 Fukase
サビの歌詞です。
再び「素晴らしい大人」という表現が登場しますが、今度は大人目線から見た「素晴らしい大人」です。
「少しずつ麻痺させる」「諦めを教えてくれる」とあるように、「大人になる」ということが不本意な形であることは間違いありません。でも大人になることは「僕達を楽にさせて」くれる。
ここまでの歌詞から読み取れるように、「子供」というものは大人、社会に対して反逆的な態度をとることが多く、諦めることを知らない。それゆえに大人と対立することも多く、たくさんの衝突、摩擦を経験するものです。
でも社会に対する反逆を諦める、理不尽な事に対するアンテナを麻痺させる、この曲内でいう「大人になる」ことによって、大人との間の摩擦がなくなる、すなわち楽な生活を送ることができる、というわけ。だから、大人になることは「僕たちを楽にさせて」くれる。
「君たちをいずれ 素晴らしい人にしてくれる」という表現も当然子供への皮肉。今の君がどんな子供であろうとも、時間というものがいつか君を「大人」にしてくれるよ、と強調しています。あえて子供の理想と同じ「素晴らしい人」という表現を変えずに用いているところが憎たらしいです。もちろん先に述べた通り、それが指す人物像は全然違うのですが。
Hey Kid
I'm from your future
“Nice people make the world boring”
SEKAI NO OWARI 「LOVE SONG」作詞 Fukase
先ほどの歌詞の続き。
最初に述べた通り、「I'm from your futures」。あくまで自分は君の未来から来た存在、つまり将来の君である、というわけ。
しかしここで、「Nice people make the world boring」という表現がさらっと登場しますが、ここだけ圧倒的に違和感があります。この曲最大のポイント。だって、子供の目線の歌詞ですから、ここだけ。
訳すると、「善良な人々が世の中を退屈にしている」。でも、「素晴らしい大人」になった自分の口からこう語っているんです。
ここが何を意味するかって、結局「子供」の考えを肯定し直してる。「素晴らしい大人」になった今も、社会に噛み付くことを完全には諦めきれてないんです。でも、今更自分が変わる気はない。だから、子供の頃の自分にそう伝える。これは、2番の歌詞にもつながってきます。
わざわざここだけ英語、というのもちょっと突っかかります。深い意味なんかなくて語感で英語にしたのかもしれませんが、言語を変えることで「他の大人には言えないけど君には伝えておくよ」といった意味合いを出そうとしたのかな…なんて思ったり。暗号メッセージのような意味合いで。
もっとも、子供は大人より英語わかんないんですけどね…笑
牙を剥き出しにした飼い猫達のよう
可愛いだけが取り柄なのかい?
大人達が作っていく エゴイストで悪い汚い大人像
まっすぐな思想が美しい 傾向
SEKAI NO OWARI 「LOVE SONG」作詞 Fukase
2番の冒頭。歌詞にはありませんが「可愛いだけが取り柄なのかい?」のあとには蔑むような笑い声が入ってます。
最初の2文は単純に子供を蔑む文。
そして、その後の「大人達が…」からの部分のポイントは、「大人」というものが醜い存在であると認めている、という点。
「素晴らしい大人」になった今でも、「大人」に対してマイナスな印象を持っていることが明示されています。
でも君の静寂の悲鳴は僕も知っている
弱いまんま強くなれ なぁKid
どんなに時間がかかっても 僕がここでずっと待ってるから
君の力で立ち上がれ Hey Kid
SEKAI NO OWARI 「LOVE SONG」作詞 Fukase
先ほどのサビの「Nice people make the world boring」に繋がると思われるのはこの部分です。ここまでずっと卑下してきた子供に突然エールを送る。
「静寂の悲鳴」、scream of silence。セカオワの楽曲「Hey Ho」でも登場する表現です。
何気にこの楽曲で「Hey Ho」の歌詞解釈のヒントが与えられてます。笑
ここでの静寂の悲鳴は、恐らく「子供」の、大人に押し潰された叫び声、すなわち反対意見であったり、悲痛な主張であったり。それは僕も知っていると。
「弱いまんま強くなれ」という表現が難解です。一見すると矛盾しているような表現ですが、個人的には「立場的に弱いまんま、精神的に強くなれ」という意味合いかな、と感じました。要は、社会に牙を剥く「子供」という、蔑まれがちな立場でありながら、精神的には強くなれ、ということ。大人に飲み込まれるなよ、といっているわけです。
「どんなに時間がかかっても僕がここで待ってるから」。未来の自分から過去の自分へのメッセージ。「僕がここで待っているから」ということは、やはり大人になった自分もどこか「子供」のまま、大人になりきれないままでいるようです。そこで、どうか子供のままお前も育ってくれ、つまり社会への反逆心を捨てないでくれ、と訴えかける。
全く恋愛ソングではないにも関わらず曲名が「LOVE SONG」となっているのはこの、昔の自分へのある種「愛のメッセージ」があるからだと思われます。
勿論曲の序盤で散々子供を蔑んでいるわけで、純粋な愛では決してないように思われますが、いくら歪んでいようと完全に捨て去ることのできなかった「愛の歌」。それがこの楽曲「LOVE SONG」なのではないでしょうか。
ここからの歌詞は1番と変わらないので割愛します。
まとめ
2番は1番の補足的な歌詞で、メインのメッセージはやはり「Nice people make the world boring」の一文に込められているような、そんな印象を受けます。善良な人々が世の中を退屈にしている。盛大な皮肉です。セカオワが過去に行ったツアー「INSOMNIA TRAIN」においても、ステージ上に大々的にこの一文が掲げられたことで話題になりました。
「善良な人々が世の中を退屈にする」。ここでいう「善良な人々」という考え方は、セカオワ的な文脈で行くと「正義」であり「大人」でもあります。勿論それは世間一般的に見たものであり、絶対的に正しいものではない。
過去の楽曲を振り返れば、その考え方は顕著に現れます。
猟奇的な一般の市民は「世界」中で血の雨を降らし
「セカイ」中で一つになってこういうんだ 「世界平和」
世界の終わり 「世界平和」
「いじめは正義だから 悪をこらしめているんだぞ」
そんな風に子供に教えたのは 僕らなんだよ
世界の終わり「天使と悪魔」
ここでいう「一般の市民」はいわゆる「善良な一般市民」ではあるけれど、「世界平和」という大人達の共通概念のもと血の雨を降らせているのもまた「一般の市民」。
ここでいう「正義」は大人たちがみんな受け入れている理念ではあるけれど、悪を滅ぼすという目的を与えいじめを正当化するのもまた「正義」。
このように、「大人」という存在や大人達の社会が生み出している負の一面に目を向けた時、人間的で面白い社会がそこにあるかと問われれば、答えは否、誰にとってもそうではないでしょう。「普通」「正義」なんてものは固定観念であって、絶対的な正しさではないし人間的なものであるとも限らない。そんな状況を端的に表した一文が「Nice people make the world boring」なのではないでしょうか。
しかし、サビの歌詞にある通り、時間が子供を成長させ、麻痺させ、楽にさせる。「普通」、「正義」といったものを受け入れさせてしまう。
ネットの反応を見ていると、この楽曲が過去のセカオワの楽曲にあてたアンサーソングだ、という風に考える人も多くいました。私もその通りだと思います。
事実、セカオワは長い間このような世間に噛み付くタイプの楽曲を発表してこなかった。ファンの間でも、あの頃の世界観はもう帰ってこないだろう、といった気運が高まっていたし、言い方は悪いけれど「『世界の終わり』は死んだ」なんて考える人も多かった。
しかしながら、長い年月を経て発表されたのがこの楽曲。過去のセカオワにあてた歌詞だと考えれば、確かに社会に噛み付いているという意味で「Kid」は過去のセカオワだと考えることができます。更に今の自分の立場で「Nice people make the world boring」と歌ったり、過去の自分たちを応援したりしている。つまるところ、大人になったにしろ麻痺したにしろ「世界の終わり」は死んでなんていなかった。むしろ新しくなって帰ってきたわけです。
「LOVE SONG」が収録されているアルバム「EYE」には、「スターゲイザー」「Witch」といったダークな楽曲がばっちり収録されており、「世界の終わり」時代のような世界観が垣間見えます。
その意味で、「LOVE SONG」は多くの「世界の終わり」ファンを喜ばせるものになったのではないでしょうか!
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以上で終わりたいと思います。
終始上から目線のような文章になってしまい、不快に思われた方がいらっしゃったら申し訳ないですm(_ _)m
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